DISCOGRAPHY
6th ALBUMHome Bound
SECL-3006
1999/09/08 REMASTERING
1980/10/21 released
- 01終りなき疾走
- 02東京
- 03丘の上の愛
- 04あばずれセブンティーン
- 05傷心
- 06今夜こそ
- 07反抗期
- 08ガラスの部屋
- 09明日なき世代
- 10家路
「戻ってくるために離れることが必要だった」。
レコードの帯には、そう記されていた。日本を離れた海外録音、そこに自らのルーツであるRock、そしてR&Bに回帰することを重ねた秀逸なコピーだった。
1980年の夏、初めての海外録音でロサンゼルスに。当初は、アメリカ西海岸ではなく、イギリスでレコーディングしたいと思っていました。ニューウェイヴの出てきたイギリスの、たとえばエルヴィス・コステロなどのロックなザラつき感が、自分のサウンドイメージに近いと思っていたから。
でも、ジャクソン・ブラウンのレコーディングメンバーのザ・セクションと出来るかも……という話があって、それならアメリカもいいな、と。ただ、交渉中にザ・セクションのメンバーがジャクソンとのツアーに出ることになってしまって。
それで、改めてデヴィッド・キャンベルという、ジャクソンなどの弦のアレンジをしている(キャロル・キング『つづれおり』ではヴィオラを演奏)プロデューサー/アレンジャーがミュージシャンをコーディネートしてくれることになったんです。彼は、最近では〝ベックのお父さん〞ということでも有名だよね。
アルバムの1曲目は「終りなき疾走」。俺の感覚としては、ニューウェイヴの出てきたイギリスのロックなザラつき感が俺のサウンドイメージに近いと言ったけど、アメリカでいえば当時、イギリスのパンクやニューウェイヴに影響を与えたラモーンズのサウンドをイメージしていました。
70年代になってロックがビッグビジネスになって産業化されていって、R&Bがディスコになる。その流れに対抗するように、60年代の古き良きロックを過激なサウンドでプレイして70年代後期に流行ったのが、ラモーンズにも代表されるパンクだよね。
実は、その頃はほとんど聴いていなかったんだけど、ブルース・スプリングスティーンも、流行の音に振り回されることなくロックやR&Bのルーツの音を再生させていたという点では、パンク的だったとも言える。
「終りなき疾走」や2曲目の「東京」でギターを弾いているのがTOTOのスティーヴ・ルカサー。俺達、彼がスタジオに来る前の日に、当時はまだ野外劇場だったユニバーサル・アンフィシアター(のちのギブソン・アンフィシアター、現在は閉館)にボズ・スキャッグスのコンサートを観に行って、そのゲストミュージシャンがTOTOのメンバーだったんだよね。
その演奏を聴いた次の日の朝、スタジオに行ってそこに“TOTO”と書いた楽器車があったときには「お、本当に来てるんだ!?」と思った(笑)。TOTOとパンクじゃ正反対だけど、ギター奏者の水谷さんや町支くんは大喜びでした。そして、スタジオのブースの中にマーシャルのアンプが並んでいて、彼はスタジオの調整室のほうで弾くんだけど、地鳴りしていたね。
プロデューサーの鈴木さんも「ルカサーのプレイは圧巻だった。若くていちばんいい時期に弾いてもらえたのは、僕らにとって大財産。すごくラッキーでした」と言っています。
「丘の上の愛」などのピアノを弾いてくれたニッキー・ホプキンスも、とても印象深い人でした。ローリング・ストーンズのあのロックンロールピアニストのイメージが強かったけど、会ってみたらすらっと背が高くて優しい人で、モーツァルトとかシューベルトがすごい好きというクラシック派でした。
間奏では、ウーリッツァーと生ピアノを重ねて、テープをスロー回転にして、それを速くして2回ダイビングしてバロックの感じにしてくれた。イントロは、コード進行に合わせて彼がアドリブで弾いていたのがあまりに美しいフレーズだったので、そのまま録音させてもらいました。
「バンドを集めて行くから、日本で一緒にツアーをやろう」と住所も教えてくれたんだけど、彼は50才の若さでなくなってしまって、叶わないままになってしまいました。
当時俺はザ・クリトーンズというニューウェイヴ系のバンドも好きで、そのバンドのギタリストのマーク・ゴールデンバーグも参加してくれました。イメージとしてはタイトな、モッズみたいなスーツで演奏していたイメージなんだけど、スタジオに来たときはビーチサンダルに短パンにTシャツのカルフォルニア青年で(笑)。
しかも、彼の12弦ギターが大好きだったのに持ってきてなくて「俺はきみの12弦ギターがすごく好きなんだ」と言ったら、「オッケー、わかった!家は近いから」って車で取りに行ってくれた。「明日なき世代」で弾いてくれています。
ミュージシャン達が「傷心」のメロディーラインをすごく気に入ってくれたのも意外でうれしかった。「beautiful tune」と言っていたけど、マイナーでヨーロッパ的なメロディーだからかな、新鮮だったみたいでみんないい演奏をしてくれているよね。
ハーモニカをトミー・モーガンという人が吹いてくれたんだけど、俺が待合室でまだ出来ていない歌詞を書いていたら、エンジニアが来て「なんでこの素晴らしい演奏を聴かないんだ!」って(笑)。
曲は出来ていたけど、テーマもタイトルも歌詞もまったくないままロサンゼルスに向かった、そんなアルバム制作だった。アルバムのタイトルになった「家路」にしても、ロス滞在中にかなり苦しんで書いた。「反抗期」の歌詞は行きの飛行機、エコノミークラスの通路側の席で、まわりは暗くなっている中で、灯を点けてずっと書いてた。
なんでもいいからとにかく書かなきゃって、必死だった(笑)。でも、「家路」にしても、実は苦し紛れのぎりぎりのところで書いているからリアルだったりするのかもしれません。それと、ミュージシャン達の出す音が詞に向かう気持ちを大きく増幅してくれたんだと思います。
テーマもタイトルも歌詞もなかったけど、自分がやりたいのはロックだ!というのだけはあったんだよね。デビュー2枚目の『LOVE TRAIN』から『君が人生の時...』まで、70年代のアルバムのメロディーやサウンドや歌詞はポップソングだけど、ファーストアルバムのロックに戻るという気持ちが強くありました。だから、アルバムタイトルを『Home Bound』としました。
すごく満足のいく作品が出来たという気持ちがあったし、高く評価してもらえると思ってはいたけど、一方で、ポップな「風を感じて」が少し売れたあとに、ロックなこのアルバムを発表したので、覚悟はしてたけど、前作の半分くらいの売れ行きだったから、少しがっかりした(笑)。
ただ、70年代にはテレビにも出たけど、自分のいる場所はあそこじゃない、自分の音楽をやる場所はライブなんだ、サクセスストーリーは夢かもしれないけど、300人、400人という観客の前でライブをやっていることが楽しい、そう感じるようになってきた時期でもありました。
ヒットチャートを意識するのではなく、いいアルバムを作っていいライブをやる。歌詞もメロディーもサウンドも、まさに原点に戻るようなアルバムが、この『Home Bound』だと思う。ロックナンバーだけでなく「今夜こそ」のような、俺のもうひとつのルーツであるR&Bのポップな曲もあるし、習作時代を経て、本当の意味でデビューアルバムという見方も出来る感じがします。
初の海外レコーディングだった『Home Bound』のあと、ミックスやマスタリングは海外で何回もしているけど、レコーディング工程を全て海外でやったのはこのときだけ。コンサートツアーで年間に何本もライブをやるようになると、一緒にやっているミュージシャン達と自分の音楽を分かち合いたいという気持ちが強くなってくるんです。ステージだけではなく、アレンジやレコーディングもツアーメンバーとやるべきだと。それが後の『DOWN BY THE MAINSTREET』あたりから現在に至る考え方になっていきます。
(インタビュー構成/古矢徹)