DISCOGRAPHY
7th ALBUM愛の世代の前に
SECL-3007
1999/09/08 REMASTERING
1981/09/21 released
- 01愛の世代の前に
- 02モダンガール
- 03愛という名のもとに
- 04独立記念日
- 05陽のあたる場所
- 06土曜の夜と日曜の朝
- 07ラストショー
- 08センチメンタルクリスマス
- 09悲しみは雪のように
- 10防波堤の上
「1981年の夏に、2週間で歌詞を書いた」と語るアルバム。
「愛の世代の前に」を書いたのが広島原爆忌の8月6日、
アルバムの発表が9月21日という、驚異的な制作日程。
収録曲からその後、ミリオンセラーも生まれることになる。
翌年1月に日本武道館公演を行うことが決まり、それに向けて強力なアルバムを作りたいという気持ちが強くあった。
たとえば「モダンガール」は、ツアー中の旭川の公会堂の楽屋でメロディーを思いついて、たしかそこでカセットテープに録音したと記憶しています(旭川市公会堂でのライブは1981年4月24日)。
当時、メロディーはだいたいそんなふうにして作っていた。歌詞は、今の六本木ヒルズあたりに建ってた古くて狭いワンルームのアパートの部屋で書きました。
今思い出しても恥ずかしくて赤面するのは、近くにあったカフェバーみたいな店のカウンターの中の女の子に「俺、来年の1月に武道館でコンサートやるんだよね」って自慢げに言ったこと(笑)。相手は「はあ?」みたいな反応でさ。武道館でコンサートをやるというのが誇らしかったんだろうね。なにせ当時の武道館といったら今の東京ドームくらいのイメージだったから。
「愛の世代の前に」は、浪人時代に町支くんに送った歌詞の中にあったフレーズで、“やがて訪れる愛の世代の前に僕らはみんな~”みたいな感じだった。でも、その時は曲として完成せず、“愛の世代の前に”という言葉だけが残ってた。
俺達が若い頃、世代のキャッチコピーのような感じで“ラブ・ジェネレーション”という言葉があった。“ラブ&ピース”とかね。ウッドストックなどに代表されるヒッピー文化の中から生まれた言葉のひとつ。
でも、俺は“ラブ・ジェネレーション”、つまり“愛の世代”という言葉にリアルさを感じなかった。人類にとって、原爆が投下される1945年以前の何億年と、それ以降のわずか30数年というのはまったく違う時代で、俺達は一瞬にして人類がきえてしまうという危機と虚無感の中に生きている世代で、その危機と虚無がこの地球上から消えない限り“愛の世代”とは言えない、「俺達は今、愛の世代の前に生きているんだ」と、そういう意味を込めて作った歌です。
70年代に書いた「いつわりの日々」などもそうだけど、この頃思っていたのは、巷には「好きだよ」とか「愛してるわ」だとかいうラブソングばかりだよな、ということ。もっとリアルなラブソングを書きたい、光があれば影だってある、その影の部分も書かなきゃ、と思って作ったのが「愛という名のもとに」や「陽のあたる場所」。
暗めのラブソングなのにキーがメジャーなのはアメリカン・ポップミュージックの影響。「片想い」「傷心」などのマイナー・キーのスローバラードは、少年時代にヨーロッパの映画音楽などを聴いていたことが下地になっていると思う。
「土曜の夜と日曜の朝」はイギリスの作家アラン・シリトーの小説のタイトルがただ気に入って......実は本は読んでない(笑)。
“生きることは いつしか見知らぬ誰かと 争い合うことにすりかえられてく”という歌詞?......直感的に書いた言葉。
よく言うけど、ソングライターってラブレターの代筆屋みたいなもの。人が思っていてもうまく言えないこと、それを代わりに歌にする。だから、書いてあることは全て自分自身のことというわけではなくて、自分から距離を置いて書くことも多い。
クリスマスの日に、渋谷の公園通りを歩いていたときに作ったのが「センチメンタルクリスマス」。街をひとりで歩いていたら、泥酔しているのか、男の人が何かウダウダ独り言を言っていた。恋人達が楽しそうに通りを歩いている中、独りぼっちで誰かに話しかけるみたいに。
クリスマスとか大晦日とか正月って、幸せな人と孤独な人の有様が表れるよね。みんなが人に優しくなれるような日であったらいいなあと思って、ドゥワップ・スタイルのクリスマスソングを作った。クリスチャンじゃないけど......。
「悲しみは雪のように」は、母が倒れて、10日間意識不明で生死の境をさまよったときに感じたことをもとにして作った歌。
1980年の10月、沖縄でのライブを終えて、東京に帰って来た日に、母が倒れたと聞き、すぐに広島に戻ったのだけど、医師に「この先何か月か意識が戻らない可能性もあるし、明日戻る可能性もある。もしくは、このまま亡くなるかもしれない」と言われた。
数日後にはコンサートの予定が入っていたので、そんな状態のまま東京に戻ることになった。新幹線に乗ったら、とても明るい乗務員の女性が勤務していて、普段だったら「かわいい子だなあ!」と単純に思うようなことだったのかもしれないけど、そのときは「こんなに明るく振舞っているけど、すごく悲しい出来事を抱えていて、でも、それを見せずに気丈に働いているのかなあ」と想像したんだよね。
その後、意識は回復したけど、麻痺が残って母の車椅子生活が始まった。上の姉さんがずっと母の世話をしてくれてね。俺は何にもしてあげていないという申し訳ない気持ちをいつも抱えていて、あるとき「親孝行なことを何にもしてないよね、俺って息子としてどうなの?」と母に聞いたら、「あんたは悪いことをして新聞に載ることもなく、ええ子よ」と言ってくれて、救われたんだよね(笑)。
そういえば、俺って結局この1曲しかシングルヒットがないんだよ。「そうか、お袋が身を持ってこの歌を俺に書かせてくれたんだな」って最近気がついた。
「防波堤の上」は、「人はいつだってひとりだ、だが、それがどうした。そう考えたとき、虚無感の向こうに死が見えてきた。とは言っても、簡単に死ねるものでもない。風がふいに背中を押してくれたら別だけど、そんなことはないから、ひとりでまた日常に戻っていく」という......そんなことを歌っている。
何せ27歳とか28歳の頃に作った歌だからね。歳を取ると「どうせ残り少ないんだから焦って死ぬ必要なんてないよな、世の中最後まで見届けてやるか......」なんて思い始める(笑)。あの頃は、自分が40歳まで生きてるなんて思わなかった。
誰しも同じかもしれないけど、若い頃というのは、漠然とした長い人生が目の前に横たわっていて、それを思うとき、濃いブルーに景色が染まっていく、そんな心模様。
J.S.Foundationの代表だった佐藤さんが「防波堤の上」が好きだと言ってくれていたんだけど、一度もステージで歌ったことがなくて、間に合わなかった......。
アルバム全体としては、『Home Bound』から『愛の世代の前に』を経て『PROMISED LAND~約束の地』につながる流れを考えると、『Home Bound』のロックとR&Bのサウンドを引き継ぎながら、歌詞の世界が徐々に外に向かっていって、それが結果的に『PROMISED LAND~約束の地』に辿り着いた、そんな3作のアルバムだと思う。
(インタビュー構成/古矢徹)