DISCOGRAPHY
12th ALBUMJ.BOY
SECL-3012〜13
1999/09/08 REARRANGE,REMIX AND MASTERING
1986/09/04 released
【DISC 1】
- 01A NEW STYLE WAR
- 02BIG BOY BLUES
- 03AMERICA
- 04想い出のファイヤー・ストーム
- 05悲しみの岸辺
- 06勝利への道
- 07晩夏の鐘 (Instrumental)
- 08A RICH MAN'S GIRL
- 09LONELY ―愛という約束事
- 10もうひとつの土曜日
【DISC 2】
- 0119のままさ
- 02遠くへ―1973年・春・20才―
- 03路地裏の少年
- 04八月の歌
- 05こんな夜はI MISS YOU
- 06 SWEET LITTLE DARLIN'
- 07J.BOY
- 08滑走路 ―夕景 (Instrumental)
BONUS TRACK:「晩夏の鐘」歌唱ver
1986年リリースのアルバム「J.BOY」の30周年記念盤
"J.BOY" 30th Anniversary Box
SECL-2025~2032
2016/11/09 released
※20,000セット限定生産・シリアルナンバー入り
※LPサイズBOX仕様
"J.BOY" 30th Anniversary Edition
SECL-2033~2037
2016/11/09 released
※完全生産限定盤
※A4サイズ変形版三方背ケース仕様
【内容】
●REMIXED 1999 VERSION REMASTERED CD (2 CD)
CD2枚組(1999年リミックス音源の2016年版リマスター)
DISC 1: 01. A NEW STYLE WAR / 02. BIG BOY BLUES / 03. AMERICA / 04. 想い出のファイヤー・ストーム / 05. 悲しみの岸辺 / 06. 勝利への道 / 07. 晩夏の鐘 / 08. A RICH MAN'S GIRL / 09. LONELY─愛という約束事 / 10. もうひとつの土曜日
DISC 2: 01. 19のままさ / 02. 遠くへ─1973年・春・20才 / 03. 路地裏の少年 / 04. 八月の歌 / 05. こんな夜は I MISS YOU / 06. SWEET LITTLE DARLIN' / 07. J.BOY / 08. 滑走路─夕景
●LIVE DISC (DVD)
「ON THE ROAD ‘86 "I’m a J.BOY"」ライブ映像約80分
01. A NEW STYLE WAR / 02. HELLO ROCK & ROLL CITY / 03. AMERICA / 04. A RICH MAN'S GIRL / 05. 想い出のファイヤー・ストーム / 06. 晩夏の鐘 / 07. 悲しみの岸辺 / 08. もうひとつの土曜日 / 09. 路地裏の少年 / 10. 反抗期 / 11. MAINSTREET / 12. 19のままさ / 13. MY HOMETOWN / 14. BIG
BOY BLUES / 15. J.BOY
●SUPPLEMENTAL DISC (DVD)
01. "AMERICA" Music Video / 02. "J.BOY" Photo Shoot Video / 03. "A BOY ON THE BACKSTREET" 40th Anniversary Live History Movie / 04. "J.BOY" 30th Anniversary ON THE ROAD 1986-2015 MIX
●COLOR PHOTO BOOK
田島照久により1986年にアメリカ西海岸で撮影された写真と初公開のジャケット写真アウトテイクなどで構成された100P写真集
●J.BOY LINER NOTES
田家秀樹による4万字におよぶ書き下ろし「もうひとつのJ.BOY物語」
福田裕彦による「アルバム『J.BOY』30年目の全曲解説」
●ORIGINAL 1986 VERSION REMASTERED VINYL ALBUM (2 LP)
※「"J.BOY" 30th Anniversary Box」のみ
アナログLP2枚組(1986年オリジナル音源の2016年版リマスター)
●"J.BOY" 7-INCH VINYL SINGLE
※「"J.BOY" 30th Anniversary Box」のみ
ラジオ・オンエア用片面シングルの復刻盤
●J.BOY TREASURES
※「"J.BOY" 30th Anniversary Box」のみ
封入特典
-REPLICA-
手書き歌詞カード / レコーディング用構成譜 / トラックシート / コンサートチケット / バックステージパス / 手書きセットリスト / 手書きステージ図 / ミニポスター / フリーペーパー
-ORIGINAL-
アートカード / バンダナ
▼【"J.BOY" 30th Anniversary Box / Edition Special】 Site
http://www.sonymusic.co.jp/ShogoHamada/jboy30th/
公衆電話からかけた初のアリーナ公演のチケット予約。これが延々通じない。ああ、浜田省吾が遥か遠くに行ってしまった……。そんな思い出もある大ブレイクスルー作品。30周年記念BOX、福田裕彦さんの“音楽的見地から見た”全曲LINER NOTESもぜひお読みください。
『DOWN BY THE MAINSTREET』の中の10代の主人公が成長していく姿を描こうと、『GROWIN’ UP』というアルバムタイトルを考えたりして曲を作っているうちに、一見サクセスストーリーの中にいる日本、そしてその中で成長する自分や少年達を歌うというテーマが見えてきた。
日本の経済が急激に成長して、「Japan as Number One」と言われるようになって、海外の土地や不動産を買いまくりはじめるそういう時代だったんだけど、経済的な成功に対して、じゃあ国として成熟しているのか—そう考えると、体はどんどん成長しているんだけど精神的なものは子どものままなんじゃないかと思ったんです。
俺自身も、アメリカやイギリスのロックミュージックや R&Bが大好きで、それを聴きながら成長して、たいした疑問も抱かずにプロになったんだけど、その頃になって「あれ? 俺はなんでこんな音楽をやっているのかな」と、ふと思って。
これは「AMERICA」を書いたあとに知ったんだけど、三島由紀夫氏が東大全共闘の学生達と討論をしたときに、「英語しゃべっていると日本人じゃないような気がするのです」「そして道歩いていて姿がショーウィンドーに映ると、このとおり胴長でそして鼻もそう高くないし、あ、日本人が歩いている、だれだろうと思うとてめえなんだな。これはどうしても外国へ行くと痛感するね」と語っている(『三島由紀夫・東大全共闘 美と共同体と東大闘争』角川文庫より)。
俺も1984年にひとりでロサンゼルスを旅したときにまったく同じことを感じた。欧米の文化を吸収して育ってアメリカにやってきて、ふとショーウィンドーの中を見たら、まさしくアジア人の自分がそこにいた。
そして翌年観たのが、ブルース・スプリングスティーンの初来日コンサート。日本の観客が一緒に拳を振り上げて「ボ〜ンインザユ〜エスエ〜!」と歌っている可笑しさ。ずっと後にYouTubeでライブ映像を観たら、スペインの観客も「Born in the U.S.A.」って歌っていて笑えた(笑)。
つまり、リスナーはただ音楽として楽しんでいるだけなんだけど、自分はソングライターだから、日本のオーディエンスが「Born in the U.S.A.」と歌っているのにはすごく違和感があった。
そんなことが重なって「日本人の少年の歌を作らないと」と思って書いたのが「J.BOY」であり、完成したのがこのアルバムです。
俺自身ものちに「初恋(My First Love)」という歌で「子どもの頃好きになった初恋の女の子を思うのと同じ気持ちだから、まあ仕方ないな」と結論づけたんだけど、当時はまだ若かったから「欧米の文化で育った自分はいったいなんなんだろう」—そんな思いを日本自体とアメリカの関係に重ねて、ただ単に“Japanese Boy”とも“日本少年”とも言えない独特な感じを、“J.BOY”という言葉に託しました。
3月から曲作りを始めて、4月から録音、7月にロサンゼルスでミックスダウンをして、アルバム発売は9月4日、翌週のオリコンチャートで初の1位になった。(9月15日発表のランキングから10月6日発表まで4週連続1位、翌2週の1位は河合その子『MODE DE SONOKO』、次の週がヒューイ・ルイス&ザ・ニュース『FORE!』、そして10月27日に再び1位に。ちなみにその翌週の1位はレベッカ『TIME』)
当時、もちろんうれしい気持ちもあったけど、実は心は沈んでいました。曲作りに入る前の2月まで前年からの“ON THE ROAD’85”が続いていて、それを姉達が気遣ってくれて九州地区のツアーが終わるまで知らされなかったんだけど、父が癌で余命いくばくもないという状況だった。
そして、『J.BOY』を作っているときに何度も見舞いに行って、徐々に体調が悪くなっていく父を見ていた。それが“J.BOY”ツアーの間ずっと続いていました。当時はまだ痛みを緩和するケアが今ほど充実していない時代で、とても苦しんでいて、ツアーの間も「悲しい」「つらい」という思いが強かった。
闘病生活の間、一度だけアリーナに来てもらって。代々木第一体育館のロイヤルボックスに席を用意してもらったけど、痛み止めを打ちながら、観てもらえたのは前半の第一部のステージだけでした。
そういう状況だったので、ナンバーワンになったことも100%無邪気に喜ぶ気分では無かった。
「A NEW STYLE WAR」でテロや原子力(NUCLEAR POWER)について歌っていて、当時雑誌のインタビューで「これからの戦争というのは、テロなんかでいきなり東京が舞台、戦場になるかも知れない。いきなり目の前のビルが破壊されるかもしれない」とか日本の原子力発電所の事故の可能性について話したけど、そういう気配とか種というのがすでにその当時あって、その匂いをとらえ感じていました。
実際に、70年代には大手ゼネコンのビルが爆破されたり、70年代の終わりにはスリーマイル島、1986年にはチェルノブイリの原子力発電所で事故があった。それら種子から芽が出て、その後次第に大きく成長していって、2001年のアメリカ同時多発テロや2011年の福島第一原子力発電所の事故につながってしまった。
そして、かつて表現作品は世界を予見していたりするものだったのかも知れないけど、現実の世界の変化の圧倒的な速さと問題の複雑さ難しさが、今やアートやカルチャーを超えてしまっている感がある。
「19のままさ」「遠くへ―1973年・春・20才―」の2曲は70年代から歌っていた曲。べつにワインのように熟成させていたわけじゃなくて、当時は「アルバムに入れたらどうか」という周りの雰囲気がまったくなかったんだよ(笑)。ひょっとしたらセカンドアルバムに入るような曲だったのかも知れないけど、「もっとポップに、もっとポップに」という時代で、いきなり『LOVE TRAIN』になってしまったので。
俺の作る曲には、自分との距離が遠い曲もあれば近い曲もある。この2曲は作り手と歌との距離がかなり近い、ソングライターと歌がほぼ重なっている曲なので、アルバムにどうしても必要だと思って、「路地裏の少年」のロングバージョンとともに、ひとつの面にまとめて入れました(当時はアナログ盤2枚組2枚目のA面)。
国鉄がJRになったのが翌年の1987年。J-WAVEの開局は1988年(洋楽しか流さなかった局が邦楽を流すようになった際にJ-POPという呼称を使うようになったのがJ-POPの始まりといわれている)、Jリーグの発足は1992年。
「これって俺のアルバムの影響じゃん」みたいなことを言うのは、謙虚じゃないなと、黙っていようと思った(笑)。でも、うれしかったよ。あんなふうにキャッチコピーみたいに使ってもらえるのは。そこに新しい表現の仕方が生まれたわけだから。
面白いエピソードとしては、俺の友達がイスラエルに行ったときに向こうの兵隊に「J.BOY」を聴かせたらしい、そうしたら「おおーっ! 俺達の歌だ!」って。“Jewish Boy”だからね。…ということは“Jamaican Boy” も“Jordan Boy”も「J.BOY」だね(笑)。こんどレゲエのリズムでやってみよう!(笑)
(インタビュー構成/古矢徹)